誠はあるか、メンタルトレーニング
今年の大河ドラマは、西郷どんを
やってますね。
東京上野にある上野恩賜公園では
西郷隆盛の銅像が有名です。
その銅像の除幕式に招かれた
西郷隆盛夫人はひと目見るなり、
「うちの人はこげな人じゃなか!」
と言って腰を抜かしたそうです。
ではいったい誰?(^^)
明治維新の立役者、西郷さんは
どんな人だったのでしょうか。
1853年、ペリーが来航し、強圧的
な開国要求を迫るとそれまで鎖国を
行ってきた国内は開国派と攘夷派
に2分します。
この頃、下級武士だった西郷隆盛は
薩摩藩の第11代藩主、島津斉彬
(なりあきら)に引き立てられました。
将軍跡継ぎ問題が起こると斉彬は
今こそ国防と幕府を固めることが
第一だと一橋慶喜の擁立に動き
始めます。
西郷は、その支援・情報収集役と
して江戸や京都の朝廷・公家衆など
を奔走しました。
しかし、井伊直弼が大老になった
ことで政局は急転。
日本が不利な「日米修好通商条約」
に勅許を得ないまま調印し、将軍
継嗣を徳川家茂に決定したのです。
反対していた、攘夷派や一橋派の
大名、公卿、志士(活動家)を謹慎、
逮捕など激しく弾圧する、
「安政の大獄」が始まります。
斉彬は5000人の兵を率いて上洛し、
朝廷より幕府改革の勅許を受けて、
井伊大老を中心とする幕府に改革を
迫ることを計画。
ですがその直前で斉彬は病死して
しまうのです。
「斉彬公亡き今、私だけ残って何の
意味があるのか・・・」
西郷は国許に帰り、斉彬の墓前で
切腹を覚悟します。
ですが、京都清水寺 成就院住職の
僧・月照(げっしょう)に殉死を
止められます。
月照は、将軍継嗣問題の際、朝廷
との橋渡し役を務めるなど、西郷
とは深い親交がありました。
月照は西郷の目を見つめながら、
こう言います。
「西郷はん、このまま斉彬公の後を
追って死んで、天上の斉彬公が
お褒めになるとお思いですか。
いや、必ず斉彬公は烈火の如く
お怒りになるでしょう。
なぜわしの志を継いで働かなかった
のだと」
西郷は涙を流しながら
「おいが間違ってもした」
と殉死を思いとどまり、斉彬の遺志
を継ぐことを決心したのでした。
その後、次の薩摩藩主との折り合い
が合わず、西郷は島流しにされます。
ですが、そこから解放された後、
薩長同盟の成立や王政復古に成功、
戊辰戦争では勝海舟との江戸無血
開城、など維新の為に尽力する
のでした。
そんな西郷さんが残した有名な
言葉が、「敬天愛人」。
「天を敬い、天が人々を愛するように
人を愛する」
さまざまな本などでも引用されて
いますよね。
そしてさらにこれに続く言葉がある
そうです。
「我が誠の足らざるを尋ぬべし」
「自分の誠が足りない事を常に
反省すべし」
そういう意味だそうです。
西郷さんは、島流しにあった時や
その後の行動でも常に自分に誠が
あるのかを問い正していたんですね。
そして、たとえば社長や経営者、
起業家など、自分の使命や
ビジョンに突き進む時、その
大きな運命に対して、
自分にはできるだろうかと
恐れを感じることさえあります。
あなたはそんなことはありませんか?
西郷さんも、もしかしたら
そんな日本の国に大きく関わる
ことで、苦悩されたかも
しれません。
私も西郷さんのこの言葉を知り、
人間としての器をもっと大きく
していきたいと思ったのでした。
それにしてもそもそも誠って何で
しょう。
私は「大義」ではないかと思って
います。
人々のお役に立ちたいという素直な
気持ち。
これをずっと大切にしていきたいです
よね。
あなたは「誠」についてどんな
イメージを持たれていますか?
セルフイメージコンサルタント
岡崎哲也
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