日本人を救助せよ!
あなたにとってのヒーローは
何ですか?
少し前にテレビで、世界で人命を
助けたヒーローの番組をやって
いました。
タイ洞窟で13人の少年が救助
されたニュースは記憶に新しい
ですよね。
そのテレビ番組の中で、日本人
として、とても心に響くことが
あったのでご紹介します。
1985年、イラク大統領
サダム・フセインが停戦合意を
破棄したため、沈静化していた
イラン・イラク戦争が再び激化。
1985年3月17日、
イラン・イラク戦争の最中、
サダム・フセインイラク大統領は、
「48時間後、イラン上空を飛ぶ
すべての航空機を撃ち落とす」
と突然、世界へ発表します。
フセイン大統領の声明に、世界中が
慌てふためきました。
各国は、イラン在住の自国民を救出
するため、我先にとチャーター機
の手配を始めます。
日本人も企業の駐在員やその家族
が大勢イランに住んでいました。
彼らは、恐怖のどん底に突き落と
されます。
一刻も早く、イランから脱出しな
ければ、命の保証はありません。
空港に行けば助かる・・・
空港に行けば日本へ帰れる・・・
そう信じて、慌てて
メヘラーバード国際空港へ
向かいます。
しかし日本の国は、素早い決定が
できませんでした。
なぜなら日本政府は、ただちに
日本航空にチャーター便の派遣を
依頼しましたが、同社のパイロット
と客室乗務員が組織する労働組合は、
組合員の安全が保障されないことを
理由に、この要請を拒否したからです。
さらに当時の自衛隊法は、自衛隊の
外国における活動を、人道目的を
含めて想定しておらず、
また、イランまでノンストップで
飛行できる航空機が配備されて
いなかったため、自衛隊を派遣する
ことは事実上不可能でした。
その間、在イラン日本大使館では
手を尽くして各国へ救援機の交渉
していました。
ですが、いずれの国も自国民救出に
手一杯で、日本人を乗せる余裕など
なかったのです。
メヘラーバード国際空港は、押し寄せる
外国人で、予約カウンターは、大混乱
していました。
すでに大半の国際線が欠航し、どの
航空会社も自国民を優先し乗せて
いました。
そのため、日本人を乗せてくれる
便は、どこにも無かったのです。
イラン在住の日本人は、
メヘラーバード国際空港の出発ロビー
で、誰にも助けてもらえず、パニック
状態となり、危機的状況に陥って
いました。
時間だけが無駄に過ぎ、絶望と
あきらめの表情をしている人たち
が多くいました。
するとそこに2機の航空機が到着します。
そして速やかに、日本人全員215名
を乗せて、危機一髪のところで、
成田に向けて飛び立ったのです。
それは、タイムリミットの
1時間15分前。
それは「トルコ航空」の飛行機でした。
なぜトルコ航空が来てくれたのか?
その時、日本政府もマスコミも理由が
分かりませんでした。
トルコは、イラン近隣に位置する
ことから、陸路からでも脱出できる
自国民よりも、日本人の救出を優先
したのです。
この救援機に乗れなかったトルコ人
約500名は、陸路自動車でイラン
を脱出。
このことで、トルコ政府に文句を
言ったトルコ人は1人もいなかった
そうです。
前・駐日トルコ大使、
ネジアティ・ウトカン氏は、
この件に関して、このように
語られたそうです。
「われわれは、エルトゥールル号
の借りを返しただけだ」
ところで、あなたは
「エルトゥールル号」のことを
ご存知ですか?
私は知りませんでした。
1890年(明治23年)
9月16日の夜、和歌山県南端
大島(現在の串本町)を大型台風が
襲いました。
午後9時頃、「ドカーン」と真っ黒
な海から大きな音が響き渡りました。
全長76mもある一艘の木造軍艦が、
灯台の方に押し流されてきたのです。
それはオスマン帝国海軍(現トルコ海軍)
の「エルトゥールル号」でした。
オスマン・パシャ少将を団長とする
オスマン帝国初の親善訪日使節団
として、明治天皇に謁見した帰路
でした。
大型台風にあおられ、岩礁に激突
し、座礁。
機関部浸水の後、水蒸気爆発し、
エルトゥールル号は、沈没した
のです。
台風の中、暗い海に投げ出された
乗組員たちに、助かる術はありま
せんでした。
オスマン・パシャ少将以下
死者・行方不明者合わせ581名。
そんなことは何も知らず、午後9時
過ぎ、串本の灯台の当直の職員が、
日報をまとめていました。
すると、「ガシャーン」
入口の方から、大きな物音が
するではありませんか。
職員は、不思議に思い、大きな
音がした入口へ向かうと、
ずぶ濡れで、傷だらけの大男が
いました。
「大丈夫か?」
その大男は、言葉が通じなかった
ので、すぐに異国の人だと
分かりました。
すると、間もなく、次々と同じ
ように、ずぶ濡れで傷だらけの
異国の人たちが、その灯台に
押し寄せてきたのです。
これは一大事だと、灯台の職員は
村に救援のため、大嵐の中、走り
ました。
医者を呼び、村人も総出で救助と
生存者の介抱に当たりました。
その数、69人。
この時、村は台風のため出漁できず、
食料の蓄えもわずかでした。
「もう村には食べるものがなか」
「いんや鶏があるじゃろ」
「あれは、非常食じゃなかか」
「でもこの異国の人たちを助けんと・・・」
村人たちは、非常食を持ち寄り、
何日も生存者たちの救護に努めました。
500名以上の犠牲者を出した
エルトゥールル号遭難事件の知らせ
を聞いた明治天皇は、
政府に対し、可能な限りの援助を
行うよう指示。
新聞各社は重大ニュースとして
伝え、全国から義捐金・弔慰金が
寄せられたとのことです。
そして日本海軍の軍艦
「比叡」と「金剛」が、生存乗員69人
を乗せ、オスマン帝国の首都
イスタンブールに送り届けたそうです。
そんな過去があったとは・・・
和歌山県串本の村人たちの献身的
な救助があったからこそ、
トルコの人たちは、
イラン・イラク戦争中、自国民よりも
日本人を優先して救助してくれた
のですね。
このことを知った時、私は心が震え、
和歌山県串本の村人たち(祖先)と
エルトゥールル号遭難事故被害者の
方たちに、手を合わせずにはいられ
ませんでした。
この1985年イラン・イラク戦争中、
イランに取り残された日本人を
トルコ政府が救援機を飛ばして
救出した出来事と、
1890年に起きたエルトゥールル号
遭難事件のことは、日本とトルコの
友好125周年を記念して、
2015年、日本とトルコ合作映画
【海難1890】として制作されて
いるそうです。
あなたは、このお話を知って
どのように感じられましたか?
このような歴史があって
今の国際社会において新日国が
あるのだと実感しています。
過去の歴史を知り、日本人としての
アイデンティティを確立することは
セルフイメージを高める
メンタルトレーニングの重要な
要素の1つだと感じています。
セルフイメージコンサルタント
岡崎哲也
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